• 川村武郎

愛と死を見つめて

個人的な話で申し訳ないのだが、まもなく還暦だ。ウソみたいだ。まあ、周りから見たらどうって話でもないのだろうが、まさか自分が60歳になろうとは‥‥。ほんと、信じられない。おそらく、みんなそう思うんだろうけど。

ということで、ここ数年の自分の作品を見てると、「死」を扱ったものが多いことに気づく。別に悲壮感があるわけじゃない。ただ、「ほんとに死ぬんだなあ」と思うわけだ。もちろん、自分が死ぬことは10代の頃から意識はしていたのだが、昔は「いつかは死ぬんだよなあ」という感じで、その「いつか」は、ほぼ永遠を意味していた。それが、50を過ぎると、にわかに現実感を持つというか、視界に入ってきたのだ。例えば平均寿命の80歳で考えると、後20年ぐらいで死ぬわけだ。そして20年と言うと、40歳ごろから今までの時間であるわけで、「ああ、あのくらいの時間しか生きないんだ」とリアルに想像できてしまう。ほんとにすぐじゃん、と。今、いくら元気でも、絶対死ぬのだ。いや、ほんとに悲壮なのではなくて、不思議な感じなのだ。自分のことなのに、自分のことじゃないみたいな。 このくらいのトシになると、周りでいろんな人が死ぬ。同級生だったり、年下だったり、もう「死の適齢期」になってるわけで、そのこと自体はわかってるつもりなんだけど、でも、だからと言って「死を受け入れる」みたいな悟りの境地には全くならない。「死にたくないよー!」とジタバタするわけでもないけれど、「ああ、そうですか」という気分にもなれない。たぶん、この変な感じのまま死ぬんじゃないかな?みたいなのを最近強く予感する。「え?ウソ~?」みたいに死んで行くのだ。たぶん。 こういう死生観は何なんだろうな? いろんな本とか読んでると、昔の人はもうちょっと「らしく」というか、カッコ良く死を捉えてたみたいなんだけど‥‥。でも、ひょっとしたら、「らしく」書いてるだけで、やっぱり「ウソ~?」みたいだったんじゃないか?とか密かに思ってたりもするのだが。

ということで、率直に言うと、このヘンテコな「来たるべき死」に「興味津々」の今日この頃なのである。この感覚は確かに昔はなかった。というか、「死」というのはもっと重々しいものだと思ってた。だから、初めてオーロラを見た人みたいに、もとい、初めて鮒寿司を食べる人みたいに、恐る恐るながら、とっても珍しい発見の感じ? だから、ついつい書いちゃうんだよね。 ということなんだけど、そう言えば、そういう風に「死」を書いた作品って、寡聞にしてあんまり知らない。だから、還暦を記念して、ちょっとしっかり書いておこうかなと思ってる次第。でも、うっかりすると書くのに手間取って「ウソ~?」みたいになっちゃうような予感がしないわけでもないけど‥‥。 まあ、残り少ない日々。ゆっくり急がなくっちゃ。

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今回の芝居のウリは、やっぱり舞台装置。美術の多賀さんがすごいのを作ってくれた。感謝感激。やっぱりね、装置で役者のモチベーションが劇的に変わるしね。 今回のお芝居は、「死」がテーマかな? ここ数年来、この「死」が気になってます。というのは、私の中に2つの「死」がパラレルに存在している。 1つは、十代の若者にありがちな「神秘」の存在としての死。十代はめったに死なないし、死は限りなく遠い存在。であるから

いよいよ今週末の公演。台本は、役者にはなかなか好評。書く前は、アングラっぽさを意識したのだけれど、あんまりアングラっぽくはなくて、80年代小劇場っぽいかな?ラスト辺りは、唐突に「遊眠社みたいにしよう!」とか思ったりして、年配の人には懐かしく、若い人には見慣れないタイプの芝居かもしれない。 この手の芝居に慣れてない人には???な展開が多いかもしれないけど、まあ、あんまり難しく考えないで気楽に見て下さ

タイトルはいろんなプランが生まれては消え、生まれては消え、結局これになった。 今回の芝居は、何となく、ちょっとアングラで、ちょっとシュールで、かなりとっちらかってて、それで、ちょっと「死」の周辺を見すえつつ、みたいな感じですかな? わけわからん、といえば、わけわからんのだけど、別に不条理劇を志向しているわけではなくって、何となくよくわからんけど、何となくわかるみたいな話になればと思う。 まあ、テイ